出来るだけわかり易いキリスト教II2005年5月

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4. 御国が来ますように
主イエスは「御国が来ますように」と祈るように教えてくださいました。聖書において御国と言われるとき,その主な意味は,「王の支配」であります。王の支配を意味する御国は,やがてキリストが来臨する未来において完成する神の国であり,同時にイエス・キリストの到来によってすでに実現されている神の国でもあります。

  新約聖書には御国の未来性を伝える箇所が数多く見られます。キリストの来臨によって御国は完成され,神の支配は完全に実現されるのです。その御国は,黙示録に描かれたイメージによると,神の直接的な臨在の中で神を喜ぶ完全な祝福であり,究極的な恵みです。約束された御国の到来を求めて祈るように教えられているのです。

  また御国の現在性も聖書に示されています。イエス・キリストの到来によって神の国の福音が宣教されました。神に背を向け,自分を主として歩むものが,神に向きを変えられ,キリストを主として生きる。罪の支配下にあった者が,御子の支配に移されているその救いの事実が,御国の始まりであり,御国の現在性を表していると言えます。キリストによってすでに御国は開始されてもいるのです。

  その「すでにといまだ」の只中で,御国の到来を待ち望み祈願することは,神がすべてのすべてとなられる完成を求めるものであり,同時に私たちの生きる現実に,不完全さ,苦しみ悲しみ試練があることを意味します。「(神に)逆らい立つ悪魔の業やあらゆる力,あなたの聖なる御言葉に反して考え出されるすべての邪悪な企てを滅ぼしてください」1 と不義の只中で祈ることを教えられているのです。

  それゆえに私たちはこの地上のあらゆる苦難の前に絶望することなく,神の支配が確立されることを願い求めるのです。イエスを主と仰ぎ,すでにもたらされた御子の支配を覚えつつ,祈るのです。神の支配が,悩みと苦しみに満ちたこの世界に,そこにあるすべての人に及ぶことを求めて切実に祈り求めるのです。

  1 「ハイデルベルク信仰問答」吉田隆訳(新教出版社,1997)112。
( 5月 1日)

5. 御心が行われますように 天と同じように地でも
主イエスは「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」と祈るように教えてくださいました。「御心」とは「意志」とも訳される言葉で,神の御思いの全体を包括する神のご計画であるといえます。

  マタイの7章21節によると,天の御国に入ることのできる者は,父の御心を行なう者であると言われています。いくら「主よ。主よ。」と呼んでいても,父なる神の御心を行なうものでなければ,神の国には入れないというのです。御心は行なわれることを求められるものであります。この御心を行なうということを完全に行なわれた方が,主イエスでした。ヨハネの6章38節以下は,イエスが神の御心を行なうためにこの世に来られたことを伝えます。イエス・キリストの父なる神の御心とは,イエスを主と信じる人がみな永遠の命を持つことです。イエスはその御心を自覚してその生涯を歩まれ,十字架の死と復活という御業を通して御心を完全に行なわれました。

  その主イエスは神の御心が行なわれるために祈られたのです。ゲッセマネの園でイエスは「わたしの願うようにではなく,あなたのみこころのように,なさってください」と祈られました。神の独り子イエスは大きな苦しみを経て,御心に一致することを求め,神の意志を求めることで,神の御心を行なったのです。

  その御子を信じる私たちは神の御心のうちを歩むものとされたのです。神がご計画してくださった救いの全体は,人生のある時点で,「信じました」と告白するだけで終わりではないのです。やがての完成を待望して生きることを求める救いです。この生かされている現実の中で御心が行なわれることを,絶えず求めて歩むように招かれているのです。

  「天におけるように,地の上にも」と祈りが加えられることは,その故であります。天は神の御心が完全なところでありますが,地上には罪の支配の悲惨があります。この地の上に,神の御心が行なわれることを求めることで,私たちはキリストに倣って,神の意志に服従することを学び,神の御心を行なうものとさせていただくのです。

  神はみこころに一致する祈りを聞いてくださいます。神はみこころに一致するものを通して,御自身のみこころを行なわれます。「みこころの天になるごとく,地にもなさせたまえ」と祈るごとに,私たちは,神の御心との純粋なる一致を求めたいと思うのです。そして御心を行ない,御心を生きるものとさせていただきたいと思います。
( 5月 8日)

6. 日ごとの糧を今日もお与えください
主イエスは「私たちの日ごとの糧」を求めるように教えてくださいました。神の御名を崇め,御国の到来を求め,御心の実現を求める祈りに続くこの祈願は,一見異質なものに感じます。物質的食物を求める祈りを,霊的祈願に劣るものと考えることにその原因があると思われます。しかし主は食物や食べることを軽視してはいないのです。むしろイエスは食を大切にしておられます。

  イエスはパンの奇跡を通して,大群衆の空腹を満たし,パンを祝福して人々に分け与えました。またイエスは罪人と呼ばれた取税人や遊女たちと共に食事をされ,「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み」と非難されるほどでありました。十字架にかかられる前夜も,弟子たちと共に食し,復活後も弟子たちの前に現れて食事をされ,その復活を証されました。イエスは食物,食事を大切なこととして扱っておられます。神のかたちに造られた人間は,肉体をもって生きている。確かに罪に堕落しているが,その肉体を維持することはイエスによって軽視されていないのです。むしろイエスによって,人に不可欠な食は積極的に位置付けられているのです。

  イエスの食に対する態度を見るとき,「日ごとの糧」は,霊的,非物質的,象徴的ものであるより,物質的,具体的食物を指すものとして理解すべきものです。しかしこの「日ごとの糧」は,何もパンのかたまりに限定されることでもありません。それは食物に始まり,衣食住のすべての領域,人間生活の全般に渡る具体的事柄に広げて捉えることができます。この祈りによって,私たちは全てを神に依存していることを表明しているのです。神に対する信頼と依存を保ちながら,労働する。あるいは家事をする。日常の生活をする。自らの責任を果たす。そういう日ごとの営みが意図されているのです。

  この祈りを祈りながらも,「日ごとの糧」を自分に依存しているなら,その営みはたとえ豊かであったとしても,空しいと思うのです。むしろすべての祝福の源は主であることを告白しつつ,主により頼んで生きてこそ,救いの恵みの豊かさを享受する事になるのです。

  私たちは日ごとの必要について,主により頼んでいるのですから思い煩う必要はないのです。私たちはこの祈りを,「今日の私の生活に必要なもの一切を神により頼んで生きます」という信仰の告白として日々祈りたいと思います。そして私たちは与えられている日々を真剣に生きるものとさせていただきたいと思うのです。
( 5月15日)

7. 私たちの負い目をお赦しください
主イエスは「私たちの負い目をお赦しください。私たちも,私たちに負い目のある人たちを赦しました。」(マタイ6:12)と祈るように教えてくださいました。文語訳では「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく,我らの罪をもゆるしたまえ」(賛美歌564)と祈ります。私たちに罪を犯した人を私たちは赦しますので,私たちの罪も赦してくださいと祈っているように思えます。でも聖書の語順は「私たちの負い目をお赦しください。」とまず祈るのです。この順序が大切だと思います。私たちが誰かの罪を赦すことができたから,私たちは罪を赦されて救いをいただくことができるというのではないのです。私たちに不快な思いをさせる人を赦すことができなかったら,主に赦していただけないというのではないのです。

  「私たちの負い目をお赦しください。」と神に祈る必要がある私たちです。「負い目」は返さなければならない負債です。借金を負っているのです。誰に対してかというと,神に対してです。聖書は,造り主なる神に背を向け,自己中心に生きる人間の状態を罪であると教えます。本来神を神として生きる者が神を捨てて生きている。それ故に人は神に対して負債を負っているのです。ですから人は赦していただかなければならない存在なのです。主イエスはマタイ18章23節以下で負債を赦した王のたとえを語ります。王に一万タラントの負債のあるしもべが,その負債を免除してもらいました。今の日本円で6000億円という途方もない負債が帳消しにされたのです。にもかかわらず,しもべは自分に対して100万円の負債のある者を赦すことができなかったという話です。財産も家族もすべて投げ打って借金返済にあてたところで到底返すことなどできない6000億円もの負債を赦されたのが私たちです。主イエスが私たちの負債を肩代わりしてくださり,十字架で死んでくださったことで,私たちの負い目は赦されたのです。

  私たちの負い目の赦しを求める祈りに続いて,私たちに対する負い目のある人たちへの赦しの言葉が続くのです。私たちは人から受ける不正に対して敏感に反応します。そして赦しがそう簡単なものではないことを経験済みです。それにもかかわらず主は「このように祈りなさい。」と教えるのです。途方も無い負債を赦していただいたという恵みの中に立つときに私たちは隣人を赦すことへと突き動かされるのです。主の赦しの恵みの大きさ,赦される喜びを思い知るほどに,隣人を愛する歩みへと促されるのです。主の赦しの領域に立たされて祈り,生きるものでありたいと願います。
( 5月22日)

8. 試みに会わせないで悪からお救いください
主イエスは「私たちを試みに会わせないで,悪からお救いください」と祈るように教えてくださいました。「試み」は,「誘惑」とも訳すことのできる言葉です。パウロは言います。「神は真実な方ですから,あなたがたを,耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ,耐えられるように,試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(Tコリント10:13)。神が試練に会わせるということは神が人を誘惑するのでしょうか。しかし聖書は言います。「だれでも試練にあったとき,神によって誘惑された,と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり,ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ,おびき寄せられて,誘惑されるのです。」(ヤコブ1:13-14)。

  神は試練を通して信仰者を磨き上げようとされます。しかし人は肉の欲に引き寄せられて誘惑に陥るのです。人は自分にもたらされる事態を試練として耐え抜くか,欲に負けて誘惑されるかという戦いに絶えず置かれていると言えます。すべての事は究極的には神の許しの内に引き起こされるものです。それを耐え忍ぶことで試練として神との交わりを固くすることもあれば,欲に引き寄せられて誘惑に陥ってしまうこともあるのです。私たちは敗北へと誘う強力な力,悪(悪い者)の攻撃に絶えずさらされており,容易に屈服させられる弱さを持っているのです。

  ですから私たちは祈る必要があるのです。私たちは試練や誘惑に会うことを避ける事が出来ません。私たちが弱い者であることをしっかり認めて,試練を誠実に受け取ることができるように,誘惑に陥ることが無いようにと祈ることが求められているのです。日ごとの糧を主に頼るのと同様に,試みへの勝利,悪からの救いを絶えず求めるように教えてくださっているのです。主イエスはすでに十字架の御業により悪い者に勝利してくださっています。絶えず主の勝利に与る者であることを求めて祈ることができるのです。試練を試練として耐え忍び,悪の誘いに勝利することができるように,信頼をもって祈りたいと願います。
( 5月29日)

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