出来るだけわかり易いキリスト教II2005年4月

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1. はじめに
今週から主イエスが教えてくださった「主の祈り」を学びます。主イエスによって救われた人間の生活は神への感謝に集約されます。「全生活にわたる感謝」の指針として十戒を学びましたが,これに続いて感謝の「最も重要な部分」としての祈りを学びます。

  キリスト者は神に祈ることができます。唯一のまことの神に祈り求めることができる。この関係が与えられていることこそ感謝の動因ですが,主イエスは私たちに祈りの模範を与え,心から請い求めるべき事柄を教え,感謝の生活に招いてくださいました。

   感謝の生活は祈りの生活でもあります。主が教えてくださった祈りを学ぶことで,主への信仰を学び,主への感謝へと導かれていきます。主が教えてくださった祈りを心から祈るほどに主へ感謝の「最もすぐれたもの」をささげさせていただくことができるのです。

  全体の構成は2部に分けられます。はじめの呼びかけに続いて「御名,御国,御心」に関する祈願があり,後半に「私たち」に関する祈願が続きます。主が教えてくださった祈りの豊かさを味わいつつ,心からの祈りを捧げたいと願います。

天にましますわれらの父よ。
ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。
み国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく,地にもなさせたまえ。
われらの日用の糧を今日も与えたまえ。
われらに罪をおかす者をわれらがゆるすごとく,
われらの罪をもゆるしたまえ。
われらをこころみにあわせず,悪より救い出したまえ。
(国とちからと栄とは,
限りなくなんじのものなればなり。アーメン。)
1


  1 日本基督教団出版局『賛美歌』564番,参照。
( 4月10日)

2. 天にいます私たちの父よ
イエスは「父よ」と祈るように教えられました。人が神の子とされ,父なる神に祈る存在となることを意図して,イエスはこの祈りを教えられ,その実現のためにこの地上の生涯を全うされたといえます。神の子どもとされる特権を私たちに与えるために,イエスは十字架への道を歩まれました。弟子たちが神に対して,「父よ。」と祈ることができるようになるために,イエスは罪を背負われたのです。イエスの十字架により,死ぬべき存在であった罪人が,生きるものとされ,神を喜ぶ者とされたのです。キリストのゆえに,私たちは神を「お父さん」と,親しくお呼びすることができるのです。イエスの救いのみ業により,この祈りは可能なものとされたのです。パウロによればこれは,聖霊の働きによるものであると教えられます。「神の御霊に導かれる人は,だれでも神の子どもです。・・・私たちは御霊によって,『アバ,父。』と呼びます。」(ローマ8:14-15)

  イエスは「父」ということばに「私たちの」という言葉を付け加えて祈るように教えられました。キリストを信じる私たちお互いは,それぞれが神に対して「父よ」と呼ぶことができる存在でありながら,「私たちの」ということばで御国の民の一員であることへの自覚を促されるのです。

  イエスはまた「私たちの父よ」という呼びかけに加えて,「天にいます」という言葉も付け加えました。父という親しさと共に全能の力あるお方に対する祈りへと私たちを導きます。同時に完全なお方への確信をも与えられるのです。私たちの置かれている状況が,人間の目には困難に思え,解決など見出せないような危機的状況であったとしても,私たちが祈りを捧げる相手は全知全能の神であり,私たちを愛し,私たちを子としてくださり,親しく臨んで下さるお方なのだということを,祈りのたびに新たにさせられるのです。

  神の子供とされた私たちの心からの応答として「天にいます私たちの父よ」と呼びかけるものでありたいと願います。
( 4月17日)

3. 御名があがめられますように
「天にいます私たちの父」に対する呼びかけに続く第一の願い「御名が崇められますように」は直訳しますと「あなたの御名が聖とされますように」と訳される言葉です。

  御名とは何を意味するのでしょうか。聖書において,「名」という概念は特にその存在と密接に関わっている言葉です。名はその人その存在そのものを表す言葉です。旧約聖書において言われる御名とは,神ご自身のことを指している言葉です。

  では,その神ご自身を表す御名が聖とされるとは,どのような意味なのでしょうか。新約聖書では,聖とされる主体はキリスト者であります。聖という概念は,神のために,あらゆるものから切り離されて,選び分かたれる状態を表すものです。神が聖であるから,人も聖とされることを求められるのです。これは旧約聖書を背景としている言葉です。レビ記の10章3節と22章32節の記述を総合すると,神がご自身を聖として現わすことと,民が聖なる神を聖とすることとが,礼拝という文脈の中で一つとされています。その存在の本質から聖であるお方が,民を聖別し,聖なる神の名を汚すことがないように,神を神として礼拝するようにと求めておられるのです。「聖とされますように」と祈る事はすなわち,人が神を神とする事の中に表されることであるといえるのです。

  私たちが祈りを捧げる対象であるそのお方は,聖なるお方であり,私たちにも聖であることを求めるお方であり,御自身が聖とされることを求めるお方です。私たちが神を聖とし,私たちも聖となることは,罪人である私たち自身の内側から出てくるものではありえません。イエス・キリストに根拠を持つものです。「キリストは,私たちにとって,神の知恵となり,また,義と聖めと,贖いとになられました。」(Tコリント1:30)。それゆえ「あなたの御名が聖とされますように」と祈る時,聖めとなられたイエス・キリストが礎であることを想い起こしつつ,神を聖なるお方として崇めるのです。そして私たちをして御名が汚されること無く,むしろ賛美されるようにしてくださいと願いを込めて祈るものでありたいと願います。
( 4月24日)

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