出来るだけわかり易いキリスト教II2005年2月

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8 第6の戒め
殺してはならない。」出エジプト20:13

  痛ましい事件が後を絶ちません。「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問われるような時代でもあります。人の命が軽んぜられている世の中で,この戒めを真剣に受け止めることが求められています。この短い戒めは,十戒の中でもとりわけ,今日的課題と密接に絡み,かつ問題視される教えです。この戒めの下にさまざまな,しかも重大な倫理的課題が問われています。限られた紙面でそれらを取り扱うことはできませんが,この戒めが命ずる要点を聖書から教えられたいと思います。

  殺人の禁止を求める戒めは,人が何者であるかに関わります。聖書は,人は「神のかたち」に造られたものであると教えています。「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し,男と女とに彼らを創造された。」(創1:27)。人は「神のかたち」に造られた尊い存在です。

  神が造り主であって,人は被造物です。神が命の主権者であります。その主権者を差し置いて,人が命を奪うことがあってはならないのです。神が造り与えた尊い命を,人が奪ってはならないというのが,この戒め中核であります。
  しかし聖書は単に血を流す殺人行為の禁止だけを求めているのではありません。キリストはこの戒めを人の心の内側にまで語り込んでいます。

  「昔の人々に,『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを,あなたがたは聞いています。しかし,わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は,だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は,最高議会に引き渡されます。また,『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:21−22)

  キリストは私たちの思い,言葉,態度をも問題にしています。人が心に抱くねたみ,憎しみ,怒り,復讐心などは,「殺人の根」として神に憎まれるものなのです。1兄弟を憎む者はみな,人殺しです。」(Tヨハネ3:15)とも言われています。

  命の与え主である神を信じるものは,命が人間の意のままにならないものであることを自覚すると共に,隣人を憎むのではなく愛を示して生きるように教えられているのです。

1 吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』(新教出版社,1997)98f.

( 2月 6日)

9 第7の戒め
姦淫してはならない。」出エジプト20:14

  第7の戒めは姦淫を禁じます。「姦淫って何ですか?」と聞かれそうな時代です。『広辞苑』によるならば「姦淫」は「不正な男女の交わり。不倫な情事」であります。この「不正な」をどう解釈するかが今日の社会においては歪められているように思えます。「不正な男女の交わり」の範囲があまりに特異なものに限定されて解釈されてはいないだろうかと感じます。いわゆる性的虐待などは「不正な」ではなく「異常な」犯罪です。「不正な」とは,そもそも結婚関係以外の性的関係を意味するもののはずです。しかし今日結婚関係以外の性的関係を「不正な」と感じている人はあまりに少ないのではないでしょうか。ちまたには結婚関係外の性があふれています。本来それが「不正」のはずが,「常識」になってしまっているのです。キリスト教会の中にあっても,それを不正と感じない倫理的崩壊がありうるのです。

  「姦淫してはならない」という第7の戒めは,人間の性欲を禁じているわけではありません。性的関係を卑しむべきものとしているのでもありません。むしろ結婚関係における性を祝福しています。神は人を男と女とに創造され,そこに性の交わりを与えてくださいました。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」(創世記1:28)と祝福し,男と女とが「一体となる」(創世記2:24)深い関係を良いものとして与えてくださったのです。神は肉体をもった男と女を創造し,その深い結びつきの中で命の恵みが受け継がれていくことを定めたのです。

  その創造の秩序に基づく結婚の秩序が,誤った肉体関係が作られることによって,侵害され破壊されることが姦淫です。性の濫用により人格的な交わりが傷つき,愛の関係が破壊されてしまいます。神が本来意図された関係を軽んじ,独りよがりな性を求めることは,神が男と女に創造された人間の尊厳を奪うことであり,殺人ともなり,盗みともなる,神に対する不服従です。

  結婚関係の聖さが保たれることが求められています。神が結び合わせて一つとされた結婚関係が,人によって引き離されてはならないのです。この結婚関係はキリストと教会の関係になぞらえられるものです。キリストがその妻である教会のために命をささげたように夫は妻を愛し,妻は教会がキリストに従うように夫に従うよう求められているのです(エペソ5:22−33)。キリストの愛に基礎を置く関係が結婚に求められています。「不正」があってはならないのです。「人知をはるかに超えたキリストの愛」(エペソ3:19)を注がれて,その愛に満たされてこそ,神の備えた性の喜びを享受することができるのです。
( 2月13日)

10 第8の戒め
盗んではならない。」出エジプト20:15

  「盗み」が禁じられている戒めです。ここでの「盗み」は,ユダヤ教の伝統では誘拐を意味していると言われます。そしてキリスト教の旧約学者の中でも,第8戒の盗みを誘拐に限定して解釈する見解もあります。ここで用いられている動詞「盗む」の用例を確認してみると,確かに出エジプト21章16節では「人をさらった者は,その人を売っていても,自分の手もとに置いていても,必ず殺されなければならない。」とあるように,誘拐が死にあたる罪として規定されています。さらに申命記24章7節でも「あなたの同族イスラエル人のうちのひとりをさらって行き,これを奴隷として扱い,あるいは売りとばす者が見つかったなら,その人さらいは死ななければならない。」と規定しているように,人を誘拐して奴隷とすることが禁じられています。

  しかしこの「盗む」は続く22章では,より一般的な窃盗として述べられています。「牛とか羊を盗み,これを殺したり,これを売ったりした場合,牛一頭を牛五頭で,羊一頭を羊四頭で償わなければならない。」(22:1),「金銭あるいは物品を,保管のために隣人に預け,それがその人の家から盗まれた場合,もし,その盗人が見つかったなら,盗人はそれを二倍にして償わなければならない。もし,盗人が見つからないなら,その家の主人は神の前に出て,彼が隣人の財産に絶対に手をかけなかったことを誓わなければならない。」(22:7−8)盗みに対してはそれにふさわしい償いがなされなければならないこと,そしてその前提として他人の財産に手をかけてはならないことが教えられています。

  さらに十戒の「細則」のような規定が記されているレビ記19章11節では単に「盗んではならない。欺いてはならない。互いに偽ってはならない。」と何を盗むかを特定してはいません。であれば,第8戒の盗みを禁じる戒めを誘拐に限定する必要はないでしょう。財産所有権の保護という視点を排除する必要ありません。むしろ他人の所有を不正にわがものとすることが禁じられているのです。

  ハイデルベルク信仰問答の解説を参考にしたいと思います。「問い110:第八戒で神は何を禁じておられますか。答:神は権威者が罰するような盗みや略奪を禁じておられるのみならず,暴力によって,または不正な重り,物差し,枡,商品,貨幣,利息のような合法的な見せかけによって,あるいは神に禁じられている何らかの手段によって,わたしたちが自分の隣人の財産を自らのものにしようとするあらゆる邪悪な行為また企てをも,盗みと呼ばれるのです。さらに,あらゆる貪欲や神の賜物の不必要な浪費も禁じておられます。」1

  隣人を愛することは,私たちの社会生活,経済活動の全領域における誠実な営みにおいても実現されていくのです。パウロは言っています。「盗みをしている者は,もう盗んではいけません。かえって,困っている人に施しをするため,自分の手をもって正しい仕事をし,ほねおって働きなさい。」(エペソ4:28)。

1 吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』(新教出版社,1997)101f.

( 2月20日)

11 第9の戒め
あなたの隣人に対し,偽りの証言をしてはならない。」(出エジプト20:16)

  第9の戒めは「偽りの証言」を禁じます。旧約聖書の文脈では,裁判における偽証を第一の問題としています。当時の裁判において証人の証言は大変重視されていました。「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」(申命記19:5)証人の証言は被告人の生死を左右する重大なものでした(申命記17:6)ので,慎重に吟味されましたが,証言が判決に決定的な意味を持っていたことは確かです。それゆえ偽りの証言によって,被告に不利益を与え,死に至らせることもできるわけですが,そんなことがあってはならないと戒められているのです。

  レント(受難節)を過ごしていますが,キリストの裁判を思い起こします。キリストを死刑にするための裁判は偽証で塗り固められていました。「さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。偽証者がたくさん出て来たが、証拠はつかめなかった。」(マタイ26:59-60)律法を重んずるはずの祭司,律法学者,長老たちの偽証に支配された裁判によって,イエスは十字架刑の判決を受けたのです。イエスは偽りの証言にさらされながらも,真理の言葉だけを語られたのでした。

  私たちは裁判を日常的に経験いたしませんが,偽りの言葉を使って人を貶めてしまうことがあります。自己保身のために偽りの言葉で人に対峙してしまうこともあります。言葉は隣人に対して重大な結果をもたらすものであることを改めて意識させられます。私たちの隣人に対する言葉,態度を改めて問われます。例によってハイデルベルク信仰問答の解説を参考にします。「問112:第九戒では,何が求められていますか。答:わたしが誰に対しても偽りの証言をせず,誰の言葉をも曲げず,陰口や中傷をする者にならず,誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに手を貸さないこと。かえって,あらゆる嘘やごまかしを,悪魔の業そのものとして神の激しい御怒りのゆえに遠ざけ,裁判やその他のあらゆる取引においては真理を愛し,正直に語りまた告白すること。さらにまた,わたしの隣人の栄誉と威信とをわたしの力の限り守り促進する,ということです。」1

 偽証することなく,むしろ「真理を愛し,正直に語り,…隣人の栄誉と威信を…守り促進する」という積極的な展開をしています。真理を語ることが大切です。「ばか正直」な言葉が隣人の栄誉を傷つけることもありえます。自己満足の「真理」に突き進むことなく,隣人を生かす言葉を語るものでありたいと願います。「人の徳を養うのに役立つことばを話し,聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ4:29)

1 吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』(新教出版社,1997)102f.

( 2月27日)

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