出来るだけわかり易いキリスト教II2005年1月

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5 第3の戒め
あなたは,あなたの神,主の御名を,みだりに唱えてはならない。主は,御名をみだりに唱える者を,罰せずにはおかない。」(出エジプト20:7)

  第3戒は主の御名の濫用を禁じています。主の御名をみだりに唱えることを禁じているのであって,主の御名を唱えること自体を禁じているのではありません。むしろ正しく主の御名が唱えられることを求めているといえます。
  聖書において名は,単に人やモノを区別する記号ではなく,その実体と密接なものとされていました。主の御名と言われるときには,神である主ご自身の本質,存在そのものがそこに表されています。その聖なる神ご自身の御名を口にすることは,緊張感を伴うものです。ユダヤ人たちは御名を用いて神を冒涜することがあってはならないと考え,御名を口にすべきでないと考えました。神の名をあらわす文字「YHWH」を「アドナイ」と読み換え,やがて本来の発音が忘れさられ,後の時代に「ヤハウェ」と読まれるようになりました。

  しかし聖書は主の御名を呼び求め,御名をほめたたえ,御名を喜ぶ信仰者の言葉に満ちています。恐れのあまりに御名を口にしないというのはこの戒めの意図するところではないでしょう。「みだりに唱えてはならない」は信仰者が御名を唱えなかったり,びくびくしながら御名を唱えることを求めているのではありません。
ハイデルベルク信仰問答は第3戒についてこのように解説します。問99の答え「・・・要するに,わたしたちが畏れと敬虔によらないでは神の聖なる御名を用いない,ということです。それは,この方がわたしたちによって正しく告白され,呼びかけられ,わたしたちのすべての言葉と行いとによって讃えられるためです。」1

  「畏れと敬虔」によらず,自分の都合のいいように御名を口にするところでは,神が利用可能な存在と見なされています。「みだりに」御名を唱えることは,自分が主人になってしまうところで引き起こされます。神が主であることを見失うことなく,御名を口にすることが求められています。その名によってご自身を啓示される神は,私たちがその御名を讃えることを求めておられます。人はイエス・キリストの名によって祈ること,イエス・キリストを主と告白することによって,神をほめたたえる事ができるのです。

  「イエスの御名によって,天にあるもの,地にあるもの,地の下にあるもののすべてが,ひざをかがめ,すべての口が,「イエス・キリストは主である。」と告白して,父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:10−11)
( 1月 9日)

1 吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』(新教出版社,1997)93.


6 第4の戒め
安息日を覚えて,これを聖なる日とせよ。六日間,働いて,あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は,あなたの神,主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも,あなたの息子,娘,それにあなたの男奴隷や女奴隷,家畜,また,あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――それは主が六日のうちに,天と地と海,またそれらの中にいるすべてのものを造り,七日目に休まれたからである。それゆえ,主は安息日を祝福し,これを聖なるものと宣言された。」(出エジプト20:8−11)

  第4戒は安息日の規定です。この戒めは神と人との関係を教える十戒の前半部の締め括りにあたります。十戒の中で最もボリュームがある戒めであり,詳しく念入りに語られています。神の御前に生きる人間にとって最も重要な戒めだからです。この戒めは「時」を問題にしています。神のかたちの創造された人間が,完成に向けられた神の創造の秩序の中で,如何に生きるべきかを具体的に指し示しているといえます。主なる神のみを神とし,偶像を用いず,主の名をふさわしく呼ぶ者は,時を聖別しなければならない。主なる神のために一週間七日のうちの一日を取り分けて聖別し,捧げることが求められている。

  この安息日の根拠は天地創造の御業に基づいています。六日の間に主は天地万物を創造し,七日目に休まれました。その日を祝福し,聖であるとされた。その秩序に基づき,被造物である人間は神の祝福へ与るため安息日を覚え聖別するように定められているのです。安息「シャバット」は「やめる」「終る」を意味する言葉です。「やめる」ことにより,結果的に身体を休めることになるのがこの日です。この日すべての労働を「やめる」のは,この一日を聖なるものとするためです。聖なる時を求めるこの戒めによって,神は人を祝福に招いているのです。聖なるサイクルによって私たちが聖別され,祝福に与るのです。

  安息日はイエス・キリストの到来により主の日へと移行しました。キリストの救いの御業,十字架の死と復活の事実により,週の初めの日が「主の日」として主に捧げられるべき日とされたのです。キリストの弟子たちは主イエスが復活された週の初めの日,主の日の度に集まり,御言葉を聴き,祈りと交わりをして,神を礼拝したのです。救いを祝いつつ,この一日を捧げて神を崇めたのです。

  私たちは礼拝者として週の初めの一日を聖別し,神礼拝に集中するのです。この日を聖別し礼拝することから六日間の労働が意味あるものとして始められ,神の栄光のために生きる目的へ向かわせるのです。六日間しっかり働き,再び主の日にすべてのわざを「やめて」主のために時を聖別し,恵みと祝福にあずかるのです。聖なる日を中心とした私たちの生活。あらためて礼拝の生活を問われます。数々の困難が取り巻く現実の中で,安息日を神のものとして尊ぶ歩みを真剣に求めたいと思います。
( 1月16日)

7 第5の戒め
あなたの父と母を敬え。あなたの神,主が与えようとしておられる地で,あなたの齢が長くなるためである。」(出エジプト20:12)

  二枚の板に記された十戒は,内容的には「神を愛すること」と「隣人を愛すること」に区分されることはすでに学びました。第5戒は「隣人を愛すること」に関する最初の戒めであります。隣人に対する関係,態度,姿勢を教える戒めですが,単なる道徳の教えではありません。恵みによって救いを与えた主なる神が,神の民に対して,神の御前で如何に生きるべきかを教える戒めなのです。それゆえ「あなたの父と母を敬え」は単なる親孝行の奨めではなく,主なる神を恐れる者として,如何に隣人を愛するかを教えるものであり,そしてまず最も身近な「隣人」,両親に対する態度を扱っているのです。

  レビ記ではこのように語られています。「おのおの,自分の母と父とを恐れなければならない。また,わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神,主である。」(レビ19:3)神の民に「聖なる者」(レビ19:2)となることを求める主は,両親を恐れることを求めるのです。主を恐れる者として,両親を畏れ敬うものであるように教えられているのです。

  「父と母を敬え」との戒めを,主への恐れを出発点に受け取りますが,その恐れは恵みの主への正しい認識からくる恐れであります。それはイエス・キリストの贖いにより,私たちを神の子としてくださった愛なる神に対する応答です。恵みの主の前で震え上がって縮こまる必要がないのと同じように,父母の前で怯えるのではなく,むしろふさわしい尊敬を払って服従することが求められているのです。たとえ欠けのある両親であっても軽んじてはいけません。また父母もその子供を怖がらせたり,権威を振りかざすことなく,主の前に恐れをもって養い育てる責任があるのです。今日では父母が「敵」となりうる混乱した現実がありますが,聖書の教えは子供が両親を敬うことと合わせて,親がふさわしく責任を果たすべきであることを教えているのです。

  「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり,約束を伴ったものです。すなわち,『そうしたら,あなたはしあわせになり,地上で長生きする。』という約束です。父たちよ。あなたがたも,子どもをおこらせてはいけません。かえって,主の教育と訓戒によって育てなさい。」(エペソ6:1−4)

  私たちは誕生日を祝います。主が伴ってくださる人生の齢が重ねられたことを喜びます。その時主に与えられた生を感謝すると同時に,自分を生み育ててくれた父母の存在にも思いを向けてみてはどうでしょうか。誕生日に「父と母を敬え」との戒めを聞き直してみることは,主に愛されている自分が隣人を愛すべき存在であることを印象深く心に刻むことになるのではないかと思います。
( 1月23日)

今週は教会学校ニュースを掲載しました。
この連載記事は,毎日曜日の礼拝の際に配られる「週報」の裏面に掲載されています。今日はこの裏面に教会学校のニュースを掲載しましたので「できるだけわかりやすいキリスト教II」はお休みします。 教会学校ニュースも是非ご覧ください。
( 1月30日)

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