出来るだけわかり易いキリスト教2004年10月

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23 罪の赦し
キリスト教は「赦しの宗教」と言われます。何でも寛容に「許す」のではなく,罪を赦すのです。罪を赦してくださるのは神です。キリストの福音の中心的メッセージがここにあります。主イエス・キリストが十字架で死なれ,三日目に復活されたのは,神に背く人類の罪を赦すためでした。

  キリストの死と復活によって罪の赦しがあるのです。パウロは語ります。「主イエスは,私たちの罪のために死に渡され,私たちが義と認められるために,よみがえられたからです。」(ローマ4:25)十字架で死なれ,三日目によみがえられたイエス・キリストを信じる者は,罪を赦される。これがキリストの福音の根幹にあります。「この方を信じる者はだれでも,その名によって罪の赦しが受けられる」(使徒10:43)

  使徒ペテロの最初の説教も,その使信の中心は,「罪の赦しを得させる悔い改め」(ルカ24:47)を求めるものでした。「悔い改めなさい。そして,それぞれ罪を赦していただくために,イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば,賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2:38)イエス・キリストの名によるバプテスマは,キリストの死に与ることであり,キリストがよみがえられたように,「いのちにあって新しい歩みをする」(ローマ6:4)ためのものです。キリストの死につぎ合わされている者は,罪の奴隷ではなく,義の奴隷として生きる者とされているのです。(ローマ6:18)「罪の赦し」があるからこそ,人は神の前に新たに造りかえられるのです。そして神との揺ぎ無い関係を与えられるのです。その存在は絶えず悔い改める必要を自覚しています。「罪の赦し」を信ずる者は,罪の悲惨を知る者であり,悔い改めることを必要とする「罪」を絶えず意識する者でもあるからです。

  そして「罪の赦し」を信ずる者は,また隣人を赦す者でもあるのです。「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように,互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:32)神による罪の赦しに基づき相互の赦しが求められているのです。「罪の赦し」を信じる者は,赦しを感謝するものであり,赦しに生きる存在なのです。
(10月 3日)

24 身体のよみがえり
使徒信条は「身体のよみがえり」を信ずると告白します。人は死んでしまえば,もう肉体は滅んで霊魂によって存在し生き続ける,と多くの人は考えているのではないでしょうか。霊は肉体によって囚人のように閉じ込められていたが,死によって肉の牢獄から開放され,永遠に不滅の霊魂として存在すると受け取られている。しかしこの思想はキリスト教信仰とは相容れないグノーシス宗教の異教的な影響を受けています。霊を善とし,肉体を悪とする二元論に立つグノーシス主義は,身体と物質世界を軽んじます。しかしキリスト教信仰は霊肉二元論に基づきません。むしろ「人間の人格は身体,魂,心が結び合わされたひとつなる全体」1 であると考えます。それゆえ「身体のよみがえり」を信ずるこの告白はグノーシス的二元論を克服する信仰です。ここで告白される「身体」は直訳すれば「肉」という言葉です。聖書では,死や罪を負った弱い人間の肉体を指して用いられている言葉です。その肉が甦るとあえて言うことで,グノーシスが克服され,死への勝利がより鮮やかに示されます。

  この「よみがえり」は受肉して十字架で死なれたキリストの復活の事実に基礎をおき,キリストの再臨によって実現することであります。パウロは言います。「今やキリストは,眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは,死がひとりの人を通して来たように,死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち,アダムにあってすべての人が死んでいるように,キリストによってすべての人が生かされるからです。」(Tコリント15:20-22)

  「主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを,私たちは待ち望んでいます。キリストは,万物をご自身に従わせることのできる御力によって,私たちの卑しいからだを,ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(ピリピ3:20-21)

  復活は単に内面的,精神的な事柄ではなく,私たちのこの身体をも引き起こし,人格,肉体を含む全体を贖い,完全に死に勝利するものであります。神がそれをどのように実現されるのか説明は不能ですが,キリストを死よりよみがえらせた神の力に信頼し,キリストの栄光の身体と同じ姿にされる希望を告白しつつ生きることができるのです。
(10月10日)

  1 クランフィールド『使徒信条講解』(新教出版社,1995),124.

25 永遠の生命を信ず
「永遠の生命を信ず」との告白は,直前の「身体のよみがえり」を信じることと結び合っています。終りの日に肉体のよみがえりが約束されている。そして信仰者は永遠の生命をいただき神の御国で完全な憩いに入れられるのです。

  「永遠にこんな人生が続くなんてご免だ」とある人は言うかもしれません。この世の苦しみから解き放たれて,すべてを無に帰したいと願うかもしれません。しかし本来神に向けて造られた「神のかたち」である人間は,造り主の下に帰ることが無ければ本当の憩いを得ることはできないはずです。キリスト者が信じ,希望をもって告白する永遠の生命は,肉体のよみがえりと結び合っていますが,地上における弱さや無力さを負ったものではなく,「朽ちないもの」(Tコリント15:53)であります。そして永遠の生命に与るものが憩う完成された神の国は,「死もなく,悲しみ,叫び,苦しみもない」(黙示録21:4)場所であります。神が共におられるゆえに喜びに満ち,また神が私たちの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるゆえに,慰められる場であります。そこに永遠の生命が確かに約束されているのです。

  その永遠の生命は,十字架で死に復活されたキリストに根拠を持っています。「もし私たちが,キリストにつぎ合わされて,キリストの死と同じようになっているのなら,必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」(ローマ6:5)キリストの死に与り,罪を赦されて神の前に義とされた者は,キリストの復活にも継ぎ合わされて新しい命の歩みをするのです。その命はあらゆる滅びの束縛から解放された生命です。それはやがてキリストが来られて完全にされるものでありながら,すでに今,キリストを信じる者の現実ともなっている事柄です。聖書は宣言しています。

  「まことに,まことに,あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて,わたしを遣わした方を信じる者は,永遠のいのちを持ち,さばきに会うことがなく,死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

  すでに永遠の生命に移っているのです。その命はキリストと共に神のうちに隠されているもの(コロサイ3:3)でありますが,今すでにもっていると言われるものであり,終りの日によみがえりを約束されたものです(ヨハネ6:54)。「永遠の生命を信ず」と告白する者は,その希望のゆえに,この地上の人生を喜びつつ,また力強く生きることができるのです。
(10月17日)

おわりに
使徒信条を告白するキリスト者は,その告白の終りに「アーメン」と述べて結びます。「アーメン」とは,「本当に」「確かに」「その通り」という意味を持つヘブル語です。これまで告白してきた三位一体の神,父,御子キリスト,聖霊への信仰,そして私たちにもたらされている救いの現実,希望,それらのすべてを全部ひっくるめて,私の口で告白したすべての箇条は「本当に,確かに,その通りです」と,確信を込めて告白を結ぶのです。

  礼拝のたびに,キリスト者はこの「教えの要約」を告白して,自身にもたらされた救いの事実と,救いを与える神を,教えに従い認識し,そして希望を確信しつつ力強く告白するのです。キリスト者の揺るぎない確信が,この結びに込められます。それは同時に,変わることなく私たちを愛し,永遠の命へと生かす三位一体の神の真実を言い表すことでもあるのです。

  「教えの要約」である信仰の言葉を,味わい噛み締めつつ,神の真実と私たちの希望を確信して,告白する者でありたいと思います。

使徒信条

  我は天地の造り主,全能の父なる神を信ず。
  我はその独り子,我らの主,イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり,処女マリヤより生まれ,ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け,十字架につけられ,死にて葬られ,陰府にくだり,三日目に死人のうちよりよみがえり,天にのぼり,全能の父なる神の右に座したまえり,かしこより来たりて,生ける者と死ねる者とを審きたまわん。
  我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会,聖徒の交わり,罪の赦し,身体のよみがえり,永遠の生命を信ず。    アーメン

(10月24日)

 「できるだけわかりやすい」という言い訳のようなタイトルで使徒信条を解説してきましたが,続けてキリスト者が大切にすべき聖書の教えを,できるだけわかりやすく解説していきたいと思います。次回からは「できるだけわかりやすいキリスト教U」として「十戒」の学びに入ります。神が与えた十の戒めを,キリスト者はどのように理解し受け取るのかを簡潔に学んでいきたいと思います。
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