出来るだけわかり易いキリスト教2004年9月

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19 生ける者と死ねる者とを審きたまわん
神の右に座し万物の上に立つキリストは,やがて確実に来られます。そして生きている者とすでに死んだ者とをお審きになります。最後の審判がイエス・キリストによってなされるのです。

   人が行う「報復」が,時代に混乱をもたらしています。独り善がりの「正義」によって,悲しみ,叫び,苦しみが引き起こされていると言えます。正義が相対化され,何が正義なのかも分からなくなり,むしろ地上に悪が増大しているかのようにも思えます。「報復」の繰り返しによって悲惨が生み出されているような世界に,希望を見出すことができるのでしょうか。

   聖書は言います。「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。」(マタイ16:27)まことの神であるキリストが報いるのです。それは復讐ではありません。悲しみや憎しみを生み出す「報復」ではなく,神の救いの完成です。最後の審判は究極の審判です。ここにおいて全ての悪が滅ぼされ,「神が,すべてにおいてすべてとなられる」(Tコリント15:28)のです。神に属する者は,悲惨や憎しみではなく,完全な慰めを得ます。「神ご自身が彼らとともにおられて,彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく,悲しみ,叫び,苦しみもない。なぜなら,以前のものが,もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4)

  この審判は「神の御前で,また,生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエス」(Uテモテ4:1)によってなされます。「死んでしまえばすべてが終り」ではないのです。生きている者も,すでに死んだ者も,すべての者がキリストの最後の審きに引き出されるのです。そして,「申し開きをしなければ」(Tペテロ4:5)ならないのです。しかしすでに十字架で神の審きをその身に受けられたキリストを信じる者は,キリストのゆえに永遠の喜びへと迎えられるのです。

  どこぞの国家や地上的権力によって報復や審きがなされ,神の国が完成するのではなく,栄光の主の来臨と審きによって,悪は滅び,聖徒は慰められ,すべてが完成されるのです。キリスト者はその「やがて」を待望しつつ,主の来臨に備えて生きるのです。
( 9月 5日)

20 我は聖霊を信ず
使徒信条は,父なる神と御子キリストへの告白に続き,「我は聖霊を信ず」と,聖霊なる神への信仰を告白します。日本では「霊」と言えば,「死者の霊」や,人に憑いたりする目に見えない無気味な存在,そして鎮める事が必要な霊魂が意識されると思うのです。しかし,キリスト者が告白するのは聖霊であって,父なる神と御子キリストと共に礼拝される三位一体の神なのです。「神の霊」(創世記1:2)とも,「イエス・キリストの御霊」(ピリピ1:19)とも言われ,父なる神と御子キリストと分かちがたく結びついています。ニカイヤ信条では「主にして,命を与える聖霊」として信じられ,「御父と御子より出で」るお方として告白されるのです。聖霊は,鎮められなければならない日本的諸霊ではなく,「活きて働く神」なのです。

  イエス・キリストは聖霊をこのように紹介しました。「わたしは父にお願いします。そうすれば,父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと,ともにおられるためにです。その方は,真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず,知りもしないからです。しかし,あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み,あなたがたのうちにおられるからです。」(ヨハネ14:16-17)「助け主」である「真理の御霊」が,キリスト者と共にいてくださり,住んでくださるのです。「助け主」は「弁護者」を意味する言葉であり,また「慰め主」と訳すこともできる言葉です。聖霊はキリスト者の内に活きて働き,悲しむ時に慰め,苦しみの中で励まし,助けていてくださるのです。また聖霊は,イエス・キリストの言葉を思い起こさせ(ヨハネ14:26),いのちを与えて,共に生きてくださるばかりでなく,「神の子ども」(ローマ8:14)ともしてくださるのです。

  共に生きる聖霊なる神の働きにより,神の救いの御業が確かなものとされます。使徒信条が続いて告白する「教会,交わり,罪の赦し,体のよみがえり,永遠のいのち」は御霊の働きを信じることによって確信されるのです。「聖霊を信ず」との告白によって,いのちを与え共に生き,生かしてくださるお方への信頼を表明するのです。
( 9月12日)
21 聖なる公同の教会
使徒信条は「我は聖霊を信ず」との告白に続き,「聖なる公同の教会」を信じると告白します。聖霊なる神の働きによって人は神の所有とされ神の民と呼ばれます。教会とは,聖霊の働きによって集められ,守られ,保たれ,生かされる神の民の群れであると言えます。その神の民とされた人間を信じている訳ではありません。聖霊なる神が,御子にあって贖われた神の民を集め,守り,保ち,導かれていることを信じているのです。パウロは教会を「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」(使徒20:28)であると言っています。教会は「神の」教会なのであって,キリスト者が意のままにできる集合体なのではなく,神の所有なのです。神の聖霊の働きによって形成される神の教会です。

  それゆえに教会は聖であります。聖とは「区別」や「分離」を意味する言葉ですが,教会が聖であるとは,神の所有として神のために取り分けられた存在であることを明確にします。キリスト者がいわゆる「聖人」だから「聖なる」教会なのではなく,神の所有であるゆえに聖なのです。しかしそれは同時にキリスト者が聖なる者と変えられていくということでもあります。教会が聖とされるのも神の目的と働きによります。「キリストが教会を愛し,教会のためにご自身をささげられたように,…キリストがそうされたのは,みことばにより,水の洗いをもって,教会をきよめて聖なるものとするためであり,ご自身で,しみや,しわや,そのようなものの何一つない,聖く傷のないものとなった栄光の教会を,ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ5:25‐27)

  そして教会は公同的です。それは「普遍的」存在であることを意味します。世界中のキリスト教会が,北秋津の教会もまた,多様性を保持しつつ,一つの普遍的な教会の一部であることを信じています。その普遍性は歴史を貫き,永遠の御国へと続きます。「教会はキリストのからだ」(エペソ1:23)であり,そのからだは一つで,そのからだを形成させる御霊も一つです(エペソ4:4‐6)。キリストをかしらとする(エペソ1:22)教会は,目に見える存在でありつつ,同時にそれ以上の存在でもあるのです。
( 9月19日)

22 聖徒の交わり
使徒信条は「聖徒の交わり」を信じると告白します。先の「聖なる公同の教会」を言い換えるように,あるいはその実質を説明するかのように「聖徒の交わり」を信じるというのです。パウロはコリント教会への手紙をこのように書き始めています。

  「コリントにある神の教会へ。すなわち,私たちの主イエス・キリストの御名を,至る所で呼び求めているすべての人々とともに,聖徒として召され,キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに,そのすべての人々の主です。」(Tコリント1:2)

  「教会へ」との呼びかけは,すなわち「聖なるものとされた方々へ」と言い換えられるのです。そしてそれは,「至る所で」主の御名を呼び求める「すべての人々とともに」聖徒であることを伝えます。「聖徒」と言われると,教会の歴史上の偉大な人物,殉教者などの際立った存在などが思い浮かびます。しかし,すべてのキリスト者が「聖徒」なのです。イエス・キリストの十字架の贖いにより,神の前に義とされることを信じるすべての者が,聖徒と呼ばれる存在なのです。聖とするとは,神のために分離させることを意味する言葉です。すなわち神のものとされることを意味します。イエス・キリストを救い主と信じ,御霊によって歩む者は「だれでも神の子どもです」(ローマ8:14)。神の子どもとされた存在は神のものとされている。すなわち聖徒でもあるのです。

  その聖徒の「交わり」を信じるのです。聖徒は,キリストをかしらとする教会を形成しています。その教会は「キリストのからだ」です(エペソ1:22-23)。この「からだ」は「一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により,また,備えられたあらゆる結び目によって,しっかりと組み合わされ,結び合わされ,成長して,愛のうちに建てられる」(エペソ4:16)べき「からだ」です。キリストに結び合った交わりは,聖徒たち相互を結び付けます。時間や空間を超えて一つに結び合っています。その「からだ」は,愛をもって互いに仕え合い,互いに労わり合い,互いに赦し合うのです。
  キリスト者は聖徒として,聖なる交わり(聖餐)を重んじつつ,キリストのからだとして結び合って生きることを告白するのです。
( 9月26日)

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