出来るだけわかり易いキリスト教2004年8月

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14 陰府にくだり
教会は長い歴史の中で,様々な信条を生み出してきましたが,使徒信条の原型と言われるローマ信条や,西方,東方の洗礼信条においては,この「陰府にくだり」という言葉は含まれていませんでした。キリストの陰府降下は初期の教会ですでに信じられていた事柄でしたが,信条的文書に含まれることはまれでした。それでも使徒信条は様々な変遷を経ながらも,この言葉を含むようになったのです。

   実はキリストが陰府に下られたという明確な聖書の記述は見当たりません。また,キリストが死んで,死者の世界に行って,キリスト以前に死んだ人々へ福音を宣べ伝えたということも明確ではありません。まして,すでに神を知らずに死んだ不敬虔な人々のためにキリストが赴いて救いの第2のチャンスを与えたと言うなら,聖書から逸脱することになります。

パウロは言います。「キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。」(ローマ14:9)キリストが陰府で何かをされたとは伝えず,「死んで」「生きられた」という事実を伝えています。

  宗教改革者たちが生み出した「ハイデルベルク信仰問答」は,「陰府にくだり」と告白することの意味について,次のように述べます。

  「…すなわち,わたしたちの主キリストは,十字架上とそこに至るまで,御自身もまたその魂において忍ばれてきた言い難い不安と苦痛と恐れとによって,地獄のような不安と痛みからわたしを解放してくださったのだ,と。」1

  すなわち「陰府にくだり」が指すものは,十字架の死から復活までの間の出来事ではなく,十字架とそれ以前におけるキリストの苦難の極みを指して言われています。神から見捨てられ,切り離されたという意味で,キリストが完全に苦しみを負ってくださった。キリストが本当に死を死んでくださったと言う強調が,「陰府にくだり」との告白によって言い表されているといえます。死の事実とその壮絶さを刻みつつ,復活の告白へと続いていくのです。

1 吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』新教出版社,1997.40−41.
( 8月 1日)

15 三日目に死人のうちよりよみがえり
イエス・キリストは復活しました!よみがえられたのです。まことの神であり,まことに人となられたイエス・キリストは,人類の罪を負い,十字架で死なれました。神のさばきを身に受け,痛み,苦しみ,恐怖,孤独を耐え忍ばれ,死を死なれ,そして三日目によみがえられたのです。

  復活などありえるのか。「復活」というのは信仰上の言葉であって,実際はそんなこと起こるはずがないとある人は言うかも知れません。ある人は弟子たちのでっち上げに違いないと言うかもしれません。でも,そうではない。キリストの復活は,その死から三日目という特定の時点に起こった歴史上の事実なのです。

  キリストは甦られたのです。御使いは言います。「あなたがたは,なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」(ルカ24:5-6)死人の中にはもういない。本当に死人でした。しかし今は生きているのです。「死人の復活」が実際に起こったのです。現代人には受け入れがたい事件です。当時の人々にとっても,それは信じ難いことでした。しかしキリストは死を克服し,死に勝利して復活されました。復活のキリストに実際出会った使徒たちは,これを宣べ伝えずにはいられなかった。きっと誰も信じないだろうから内密にしておこうとはしなかった。むしろ最も大切なこととして,キリストが三日目によみがえられたことを語り伝えてきました。

  キリストの復活は福音の核心です。ある神学者は「キリスト教信仰の心臓」だと言います。パウロは復活の中心性をこう述べます。
もしキリストがよみがえらなかったのなら,あなたがたの信仰はむなしく,あなたがたは今もなお,自分の罪の中にいるのです。」(Tコリント15:17)さらに「主イエスは,私たちの罪のために死に渡され,私たちが義と認められるために,よみがえられた…」(ローマ4:25)復活がなかったら,信仰はむなしく,十字架もむなしい。復活がなかったら罪に死ぬしかないのです。しかしキリストは復活されました。だからキリスト者は生きることができる。復活によってキリストによる救い,永遠のいのちを生きることができるのです。
( 8月8日)

16 天に昇り
復活したキリストは,40日の間,使徒たちに現れ,神の国のことを語り,ご自分が確かに生きていることを示されました。そして天に昇られたのです。イエスは昇天を前にして弟子たちに語りました。

  「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、…宣べ伝えられる。…さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:46-49)イエスはこのように語り,手を上げて祝福しながら彼らから離れていかれました。「使徒の働き」によると,イエスは弟子たちの見ているところで「上げられ,雲に包まれて,見えなくなられ」(使徒1:9)たのです。

  イエスは天に昇られました。復活したキリストが長寿を全うして最期を迎えたと言うのではないのです。弟子たちの目の前で,天に昇られたのです。御子キリストの受肉,復活,それに続く昇天の出来事。どれも人間的には「ありえない出来事」です。が,真の神にして真の人であるキリスト,三位一体の神の御業であるゆえに可能であり,この昇天もまた事実であり,真実なのです。

  キリストは「父の約束してくださったもの」,すなわち聖霊を送るために昇天されました。キリストは十字架以前に弟子たちに語りました。「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。…もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ない…もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」(ヨハネ16:7)助け主,すなわち聖霊が,昇天したキリストによって弟子たちに送られるのです。ペンテコステに降られた聖霊は,使徒たちを力づけ,罪の赦しを得させる悔い改めを宣べ伝えさせました。

  キリストの昇天を起点に聖霊が表舞台に登場します。キリストをかしらとする教会を起こし,救いの完成を待望させます。昇天したキリストが再び来られ,神の国を完成するまでの間,聖霊が助け主としてキリスト者を導きます。まさに「間奏曲」の始まりとして,キリストの昇天は位置付けられ,告白されるのです。
( 8月15日)

17 全能の父なる神の右に坐したまえり
キリストは天に昇られました。それによって助け主なる聖霊が送られるのですが,キリストの昇天の意味はそれだけではありません。昇天したキリストは,全能の父なる神の右に着座されたのです。神の右に座することは,厳密に文字通りに,キリストが父なる神の右側に座っているということを意味しません。あくまでイメージの言語として理解すべき告白です。それはキリストが神の栄光と主権と力とを保持しておられることを言明するものです。

  この告白は初代教会の最初期の信仰告白「イエスは主である」に等しい意味内容をもちます。主は弟子たちの目の前で昇天され,弟子たちから離れていかれましたが,彼らは「イエスは主である」との信仰を告白して,イエスに従い生きました。地上の様々な権威や権力を超えて,イエスこそが自分たちの主であるとの信仰を掲げ,迫害にも屈することなく生き,また死にました。それは十字架で死に,復活し,昇天されたイエスが,父なる神の右に座しておられる主であるからなのです。「天においても,地においても,いっさいの権威が与えられてい」(マタイ28:18)るキリストは「王の王,主の主」(黙示録19:16)です。神はキリストによって教会を,そしてこの世界を統治しておられます。たとえこの世に悪がはびこり,多くの人がキリストの王権を認めないとしてもです。

  キリストは神の右に座して王として統治するだけではありません。同時に大祭司として,「主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる」(ヘブル8:2)のです。キリストはご自身を完全ないけにえとしてただ一度ささげ,まことの聖所に入り,永遠の贖いを成し遂げられたのです。死んで,よみがえられたキリスト・イエスはまことの大祭司として,「神の右の座に着き,私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8:34)王であるキリストの御名によって捧げられる祈りは,人の不完全にもかかわらず,大祭司キリストのゆえに神に聞かれ,キリスト者のささげる礼拝も,キリストの執り成しのゆえに,神に受け入れられるのです。

  王であるキリストの権威と,大祭司キリストの変わらない真実を,信仰の事実として噛み締めつつ,キリストを告白するのです。
( 8月22日)

18 かしこより来たりて
キリストはすでに来られました。律法と預言の成就として来臨されました。待ち望まれていた救い主が,処女マリヤより生まれ,十字架で救いのみ業を成し遂げるために地上に来られました。すでに来臨されたイエスはその地上の生涯にあって,再び来られることを約束されたのです。福音書はそのことを伝えています。

  「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。」(マタイ16:27)

  「人の子」と呼ばれるイエス・キリストは,栄光を帯びて,御使いを伴い,やがて,来ようとしているのです。十字架で死なれ,復活し,昇天し,神の右に着座されたイエス・キリストは,やがて再び来られるのです。飼葉桶に人間の赤ちゃんとして誕生した初めの来臨とは違い,死を克服し,天に昇られ,神の右に着座されたお方としての栄光を帯びて,再び来られるのです。イエス・キリストの昇天を見つめていた弟子たちに,御使いは語っています。「なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)

  キリストは再び来られます。その時,神の永遠のご計画が完成へと至るのです。かつて来られ,十字架で救いのみ業を成し遂げられましたが,神の救いの計画は完了していないのです。御国の福音が「全世界に宣べ伝えられて,すべての国民にあかしされ」(マタイ24:14)た後に,「終りの日」が来るのです。その時,神の右に座しておられる主イエスが,「大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来」(マタイ24:30)られるのです。いつ来られるのかはわからない。「だから,目をさましていなさい。」(マタイ24:42)と言われています。しかし確かに主はやがて来られて,救いを完成してくださるのです。

  それゆえ主イエスが再び来られることを告白するのです。そして救いの完成,神の国の完成を望んで,「主イエスよ,来てください。」(黙示録22:20)と祈りつつ,今,目を覚まして生きるのです。
( 8月29日)

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