出来るだけわかり易いキリスト教2004年6月

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6 イエス・キリストを信ず
使徒信条は父なる神への信仰告白に続き,イエス・キリストへの信仰を告白します。「イエス・キリスト」とは,名前とタイトルが一緒になった表現です。厳密に言うなら「キリストであるイエスを信じる」と告白しているのです。

  「イエス」というのは当時のイスラエルで,ごく一般的な名前だったそうです。日本でいったら「太郎」みたいなものでしょうか。それゆえにイエス様は「ナザレ人イエス」と呼ばれました。しかし名前には意味があるものです。「イエス」とはヘブル語の「ヨシュア」のギリシャ語読みで,その意味は「主は救い」,「主の救い」というものです。聖書において「名」は単に音として発音され識別される記号ではなく,その存在そのものを表すものでした。マリヤの夫ヨセフが御使いに言われた言葉はまさにそのことを意味しているといえます。

マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ,ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」(マタイ1:21)。

  「キリスト」は,ヘブル語の「メシア」の訳語で,「油注がれた者」という意味です。旧約聖書では預言者,祭司,王の任職に際して「油注ぎ」が行われました。「油注がれた者」は独特な意味を持ち,やがて特定の時に到来することが約束された王として待ち望まれてきました。メシアは,王として立てられ,神の子として宣言され,また苦しみを受け,死者の中からよみがえり,神の右に上げられるお方として預言されています。

  それらの預言がイエスにおいて成就しました。弟子のペテロは,イエスに「わたしをだれだと言いますか。」と問われ,「あなたは,キリストです」(マルコ8:29)と答えました。ナザレの片田舎で大工の子として育ち,ありふれた名前をもった人物でしたが,ペテロはこの方を約束のメシアとして告白せざるを得なかった。初代教会は「イエスこそ,キリストなのです」(使徒17:3)といって,イエスの御名による救いを宣べ伝えました。十字架で死なれ,よみがえり,高きに上げられたイエスこそが,キリストであるとの宣言を心から受け入れ,救いを得た者は,「イエス・キリストを信ず」とその信仰告白するのです。
( 6月 6日)

7 その独り子
使徒信条は「イエス・キリストを(信ず)」との言葉に続いて,イエス・キリストが誰であるのかを問題にします。イエス・キリストは「天地の造り主,全能の父なる神」の「独り子」であると告白されます。イエス・キリストは神の唯一の御子として聖書に証言されています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。

  「ひとり子」とは,キリスト者が「神の子」と呼ばれるのとは区別される独特の表現です。マリヤから生まれて,ナザレ人イエスと呼ばれ,ピラトの下で苦しみを受け,よみがえられた方が,神の「独り子」であると告白されることで,この方が父なる神と唯一の関係にあり,その本質において一つであることが表現されています。
  使徒信条と関連の深いニカイア信条では神の独り子についてこのように告白されています。「神よりの神,光よりの光,真の神よりの真の神,造られずして生まれ,御父と本質を一つにし,…」(ベッテンソン『キリスト教文書資料集』55.)

  「父と子」というと,子は父に従属する存在であるかのような印象を抱きます。確かにイエス・キリストは地上において父の御心に従順であられました。しかしそれは御子という存在が父の下位におかれるということを意味しません。父なる神とその独り子である神は本質において一つであり,両者には何の優劣も差別もありません。それはこのあと告白される聖霊についても同様であります。三位一体の神の秘義であるといえます。御子は「永遠に御父から生まれる」という点において父に起源をもちますが,それは神の一つの本質の内部において,永遠の中で起こっていることなのです。

  その御子は人としてこの歴史の只中に身をおかれました。罪人である私たちの救いのために,神ご自身が,人となられ,私たちの罪を自ら引き受けてくださいました。それゆえに,まことの救いが存在するのです。人となられた「ひとり子の神」により,神が説き明かされたのです。「その独り子」への信仰を告白することはキリスト教の根幹にかかわる重大事なのです。
( 6月13日)
8 我らの主
使徒信条のラテン語本文は「イエス・キリストを(信ず)」,「その独り子を」に続き「我らの主を」と告白します。我らの主であるイエス・キリストを告白することはキリスト教信仰の核心であると言えます。「イエス・キリストは主である」(ピリピ2:11)が初代教会の信仰告白の中心でありました。

  イエス・キリストを「我らの主」と告白することは,単にイエスに対し「ご主人様」と言ってご機嫌をとるのでもなく,「おかしら!」と言ってお仕えするのでもない,それ以上のことを意味しています。新約聖書でイエスに帰される「主」(ギリシャ語でキュリオス)は旧約聖書に背景を負っています。創世記では天地の創造主が「神である主」と表現されています。その神が出エジプト記でモーセに語っています。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった」(出エジプト6:2-3)。

  旧約聖書で語られる「主」とは神ご自身の名をあらわすものでした。その神ご自身をあらわす「主」が新約聖書においてイエス・キリストに帰されているのです。イエスの弟子のトマスは,十字架で死なれ三日目に復活されたイエス・キリストにお会いして,その信仰を告白しました。「私の主。私の神」(ヨハネ20:28)。

  まことの神であり,まことに人となられたイエス・キリストこそ,主と呼ばれるにふさわしいお方なのです。ローマ帝国の支配下にあって古代教会は,皇帝崇拝の強要に対して断固として対決しました。「我らの主」と告白されるべきお方はイエス・キリストを措いて他にないのであり,キリスト者にとって皇帝は主とはなりえない存在でした。イエス・キリストを主と告白することは,時の社会と政治状況と無関係ではいられない出来事なのです。何らかの留保や中途半端な忠誠に甘んじることのできない告白なのです。

  聖霊の導きによって,人はイエスを主と告白することによって救いをいただき(ローマ10:9-10),その告白によって神を礼拝するのです(ピリピ2:11)。そして同時に「我らの主」との告白は,キリスト者が主のものであることを鮮明にさせる,決意に満ちた告白なのです。
( 6月20日)

9 主は聖霊によりて宿り
使徒信条のキリスト告白はイエス・キリストを「我らの主」と告白してキリストの神性を強調した後,人となられたキリストの告白へと続きます。ある神学者は言いました。「イエスは全人類の中の偉大な例外」であると。イエス・キリストは完全に人として生まれましたが,同時に完全に神でもあられます。このキリストの奥義は,その誕生においても明瞭に表されています。イエス・キリストの誕生は通常の生命の誕生とは異なるものでありました。それは「聖霊によりて宿り」と告白される特別な受胎によって始まりました。

  イエス・キリストが聖霊によって宿られたことについて二つの福音書が証言しています。マタイの福音書はヨセフへの語り掛けにおいて,ルカの福音書はマリヤへの語り掛けにおいて,聖霊による受胎を語っています。

  「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」(マタイ1:20-21)。

  「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます」(ルカ1:35)。

   聖霊による受胎とは,聖霊とマリヤとの間に性的交渉があったことを意味しません。古代の異教には神々と人間との肉体的な関係によって子供が誕生するという物語が見られるようですが,聖書はそのような神話的物語とは一線を画します。聖霊はその力によってマリヤの上に働き,通常の仕方によらずに,マリヤが子を宿すようにしたのです。御使いはマリヤに語ります。「神にとって不可能なことは一つもありません」(ルカ1:37)。

  聖霊の力によってマリヤの胎の内に受胎され,人としての生命を受けた神の御子は「聖なる者,神の子」と呼ばれることが誕生前から約束されていました。その当初から罪のない聖なるお方として誕生し,生涯を歩まれた方であるからこそ,罪の贖いのための十字架を負うことができたのです。
( 6月27日)

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