出来るだけわかり易いキリスト教2004年5月

←戻る | メニューへ↑ | 次へ→

1 はじめに
今週から新連載,「できるだけわかりやすいキリスト教」を始めます。キリスト教会に集まる人たちは,一体何を信じているのか。それが本連載のテーマです。

  ほぼ世界中のキリスト教会が,立場の違いがあるにもかかわらず,共通して告白している信条が,使徒信条であります。私たち北秋津キリスト教会も毎月第1主日礼拝に告白をしています。この使徒信条は,「教えの要約」と言われ,聖書に啓示された神と,その救いの内容が凝縮されていると言えます。

  今日「使徒信条」として告白されている信条本文は,8世紀頃から現れ始めたと言われます。もちろんそれ以前から,教会ではこれに類した信条が告白されてきました。それらの信条が長い歴史的発展を経て,現在の使徒信条として定式化されてきました。当初それは,洗礼式の前に告白する信条としての性格を持ち,キリスト教の奥義を伝えるものとして大切に告白されて来ました。16世紀の宗教改革者たちも使徒信条をキリスト教信仰の核心と捉え,教会の信仰告白として丁寧に解説してきました。
  内容的には,父なる神,御子キリスト,聖霊という三位一体の神への信仰を告白する構造をもっています。

  この使徒信条をできるだけ平易に,かつ簡潔に解説することで,キリスト教入門としての「できるだけわかりやすいキリスト教」を提示することができれば幸いです。


使徒信条

  我は天地の造り主,全能の父なる神を信ず。
  我はその独り子,我らの主,イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり,処女マリヤより生まれ,ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け,十字架につけられ,死にて葬られ,陰府にくだり,三日目に死人のうちよりよみがえり,天にのぼり,全能の父なる神の右に座したまえり,かしこより来たりて,生ける者と死ねる者とを審きたまわん。
  我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会,聖徒の交わり,罪の赦し,身体のよみがえり,永遠の生命を信ず。    アーメン

( 5月 2日)

2 我は神を信ず
「我は神を信ず」と言うとき,「神」が何を指すかが重要です。「神」という言葉から,人は様々なイメージを思い描きます。雲の上にいる白髭のおじいさんだったり,人生に幸運をもたらしてくれる漠然とした存在だったり,千差万別だと思います。

  聖書の「教えの要約」である使徒信条によって告白される神は,人によって思い描かれる「神」ではなく,聖書に啓示された真の神であり,三位一体の神であります。「我は…信ず」という言葉は,後に続く「天地の造り主,全能の父なる神…その独り子,主イエス・キリスト…聖霊」によって規定される言葉です。これからのこの三位一体の神について少しずつ学んでいくことになります。

  「我は神を信ず」と言うとき,「信じる」ということも問われる必要があります。福音書を記したヨハネはこのように言います。
  「これらのことが書かれたのは,イエスが神の子キリストであることを,あなたがたが信じるため,また,あなたがたが信じて,イエスの御名によっていのちを得るためである」(ヨハネ20:31)。

  「信じる」ということは「いのちを得る」ことにつながる重大事です。「信じる」ことが,キリスト教信仰にとって重要な位置を占めていることが分かると思います。信仰というと我を忘れた熱狂主義や自己陶酔を想像するかもしれませんが,キリスト教信仰はその様なものとは一線を画しています。カール・バルトという神学者は「信仰とは信頼・認識・告白を意味する」と言いました。信仰は,救いを与える真実な神への信頼であります。また信仰は,信ずべき神がどのようなお方かを熟慮させ,自らの存在意義をも確認させるものです。そして信仰は言葉と行いによって公にされるべき告白でもあります。

  「我は神を信ず」と言うとき,信じ告白する主体が「私」であることが重要です。使徒信条は教会の礼拝で告白される信条なのに「私たちは」とは言わずに,「私は」と告白します。みんなの中に埋もれてしまって,私が私であることがぼやかされてしまうことなく,神との出会いを真実に経験したものが,共同の場において,神の前における一人の個として真実に信仰を告白するのです。
( 5月 9日)

3 父なる神
 「父親不在」と言われて久しいですが,最近ネズミの世界では世継ぎを残すのに父親不要と言われそうな時代にもなっています。父親の存在感が薄れ,父親像が揺らぎ,あるいは歪められている現状があると思います。そのような時代にあっても,クリスチャンは「父」にこだわるのです。

  使徒信条は「私は神を信じる」という言葉に神を修飾する言葉をつなげますが,はじめにつく言葉が「父」であります。しかし父なる神は使徒信条で告白する神の全体ではありません。クリスチャンは,父なる神,子なる神,聖霊なる神を,聖書に啓示された唯一の神として告白しています。父なる神は,三位一体の神を表明する一部です。それでも父なる神への信仰を告白することは,キリスト教信仰にとって重大事であり,父親像が歪められる時代にあっても決して軽視されてはならない事柄です。人が,神を父として認識し信じることは,キリストによる救いの根本に関わる事柄だからです。

  「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません」(マタイ11:27)。

  上記は,主イエス・キリストが語った言葉です。子が父を知らせようと心に定めた人でなければ,父を知ることができないのです。父を知らない者が,「父なる神を信じます」とは告白できません。キリストにある救いを得た者のみが父への信仰を告白するのです。

  イエス・キリストは父なる神を「わたしの父」であると語りました。告白されるべき父なる神は,イエス・キリストの父なる神です。人はキリストによって贖い,罪の赦しをいただき,聖霊によって神の子とされ,神に対して「父よ」と呼ぶ者とされました(ローマ8:15)。そしてクリスチャンは大胆にも「わたしたちの父」といって神に祈ることができるのです。その祈りはイエス・キリストの名において,聖霊の導きのうちに捧げられるものです。

  「父なる神」への信仰告白は,三位一体の神によって「私」にもたらされた救いを基盤とする,感謝に満ちた告白なのです。
( 5月16日)

4 全能の神
前回は,使徒信条が三位一体の神を「父なる神」と告白することの意味を学びました。今回はその父なる神が「全能の神」であることについて学びます。まずキリストが語られた次の言葉に聞きます。

  「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」(マタイ10:29-30)。

  キリスト者が神を「全能の神」と告白する時,それは単に「神様にはなんでもできる」というレベルで「神の全能」を賛美しているわけではありません。雀が地に落ちることを許すことができるから,私たちの髪の毛を数えることができるから,神は全能であると告白しているのではありません。もちろん神には不可能はありません(ルカ1:37)。しかし神は「ご自身を否むことができない」(Uテモテ2:13)のも真実です。神はご自分の本性に矛盾することは行いえないお方です。単に何かをなすことができる能力によって神の全能が言い表されているわけではないと言えます。

  むしろ,雀や髪の毛など,ちっぽけな事に至るまで神はその力を働かせておられるという事実が,神の全能を考える上で重要だと思います。父なる神は,空に飛ぶ一羽の雀でさえ守り生かして下さっているお方であり,私たち一人一人の髪の毛一本に至るまで深い関心を持っていてくださるお方です。聖書に啓示された神は,「生きる,行為し,働く神」であります。聖書が書かれた昔に閉じ込められた神ではありません。今も生きて働き,この世界に生起する現実の全てに支配の力を持っておられるお方です。それが喜ばしいことでも,悲しむべきことでも,恐るべきことでも,神の支配は万物に及んでいるのです。

  人はその「神の全能」を,キリストを通して,聖霊の働きによって知るのです。その存在の深みにおいて神に知られていることを自覚する信仰者は,その偉大な力に圧倒されながら「全能なる神」と告白して,そのお方をほめたたえるのです。
( 5月23日)

5 天地の造り主
使徒信条は全能の父なる神が創造者であるという信仰を明確に表明します。その創造の御業について,聖書は次のように証言しています。

  「初めに,神が天と地を創造した」(創世記1:1)。

  神はすでに存在している何らかの素材から天地を作り出したのではなく,また混沌から秩序を生み出したのでもなく,ただ「ことば」をもって,無から万物を創造されたのです。創世記は,この言葉に続いて天地創造の6日間を記録しています。神によって創造されたのは「天と地」に集約される全てのものです。「天地の」とは空と地上のことではなく,神以外のすべての存在を意味しています。使徒信条と関わりの深いニカイア信条は「すべて見えるものと見えざるもの」と言って「天と地」の意味を明確にしています。全能の父なる神はこの世界の全てのもの,万物の造り主なのです。存在する全てが神の創造の御業により存在させられています。月も太陽も,海も山も,木々も草も,生き物の全て,私たち人間も神によって造られた存在であります。時間も精神も,理性も意識も,存在する全てが,神の被造物なのです。

  神はご自身が創造された全てのものを見て,良しとされました(創世記1:31)。私たちはこれによって自分自身と世界とを受け取り肯定することができます。しかし私たちが被造物であることを否定し,自分たちを存在の中心にし,それを尺度にこの世界を見るとしたら,現実を正しく認識することができません。また自己の存在の意味を理解できずに苦しさを覚えるはずです。私たち人間は神の被造物の一部です。造り主なる神を知ることによって人は真の憩いを得,尊厳と価値を確認し,存在の意味を見出すことができるのです。また被造世界に対しても尊厳と敬意をもって正しく治めることができるのです。

  「知れ。主こそ神。主が,私たちを造られた。私たちは主のもの,主の民,その牧場の羊である」(詩篇100:3)。
( 5月30日)

←戻る | メニューへ↑ | 次へ→

© 北秋津キリスト教会2004